雨ニモマケズ - コトバの旅#1

言葉(ことば)の旅

コトバの旅は、世に生まれたコトバを探求する旅コラムです。


第一回目の「コトバの旅」は、宮澤賢治さんの「雨ニモマケズ」です。 「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」 この2句だけでも、心を動かす強いコトバですね。

宮澤賢治ってどんな人?

宮沢賢治さんは、1896年(明治29年)に生まれ、1933年(昭和8年)にお亡くなりになりました。芸術家によく聞く話で、生前はほぼ無名で、死後、国民的作家といわれるくらい認められるようになりました。詩や童話の作品を残しています。

岩手県で生まれて・・・

岩手県の質商の長男として生まれて、盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)に首席で進学した秀才です。 体が弱い、何かに没頭するというなどの性格をもっていて、最終的に就職はせず、結局、岩手の実家の商売を手伝うことになりました。 それでは、彼の半生を読んでいきましょう。

賢治の人生

岩手県花巻生まれ。父は質屋を営み、地元では裕福な家に育つ。子どもの頃から植物や昆虫の標本作りが好きだった。最も熱中したのは鉱物採集で、周囲から「石っこ賢さん」と呼ばれていた。国語が得意で15歳から短歌を詠み始める。18歳、法華経の経典に強く胸を打たれ、以後熱心な法華信者となる。19歳の時に現岩手大学農学部に首席で入学。特待生に選ばれ授業料免除となる。21歳、学業のかたわら友人たちと文学同人誌『アザリア』を創刊、短歌を発表していく(翌年からは童話も)。 この頃、東北では度重なる飢饉で農民は貧困に喘いでいた。そして、質入れにくる貧農たちにわずかなお金を渡し不自由なく暮らす、そんな家業に賢治は反発するようになった。1921年(25歳)、家業ではなく自分にあった仕事がしたかった賢治は、童話作家を目指して家出同然に上京する。そして、雑誌『愛国婦人』に童話『雪渡り』を発表し稿料5円を得た。これは彼が生前に受け取った唯一の稿料となった。『注文の多い料理店』『どんぐりと山猫』『鹿踊りのはじまり』『かしはばやしの夜』『よだかの星』など、今も読み継がれる名作童話の多くがこの頃に書き上げられる。半年後、妹トシ病気の報を受けて帰郷し、花巻農学校の教諭に就任する。 26歳、賢治は“心象スケッチ”と呼んだ口語自由詩を書き始める。自然観察の好奇心は相変わらず旺盛で、偶蹄類(牛、鹿等)の足跡やクルミの化石をイギリス海岸で発掘した。11月、妹トシが24歳の若さで病没し、痛切な『永訣の朝』『松の針』『無声慟哭』を書く。 出典:http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/kenji.html

賢治の最後

なんとか帰郷したものの、病臥生活が続く。賢治にはやりたいことが山ほどあった。農民を助けたい、会社を救いたい、童話を書きたい、体さえ丈夫であれば、もっと皆のために役に立てる…!この思いから、布団の中で手帳に『雨ニモマケズ』を書き留めた。冒頭で、雨風や寒さ、暑さにも負けない「丈夫な体を持ち」と願ったのはこのためだ(手帳は賢治の他界後に、仕事のトランクから発見された)。 出典:http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/kenji.html

雨ニモマケズ

雨ニモマケズ 風ニモマケズ

雪ニモ 夏ノ暑サニモ マケヌ

丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク

決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラッテヰル

一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ

アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ

ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ

野原ノ松ノ林ノ蔭(※かげ)ノ 小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ

東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ

西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ

南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ

北ニケンクヮヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ

ヒドリノトキハナミダヲナガシ

サムサノナツハオロオロアルキ

ミンナニデクノボートヨバレ

ホメラレモセズ

クニモサレズ

サウイフモノニ

ワタシハナリタイ

 

言葉(ことば)の旅

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