『20センチュリー・ウーマン』映画評!映画を読み解く上で重要になる時代背景も解説

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『20センチュリー・ウーマン』が素晴らしかった。

2017年アカデミー賞の脚本賞にノミネートされた映画で、実際にたいへん素晴らしかったので映画館で2度鑑賞した。このレビューではその映画を読み解く上で重要になる時代背景を中心に記そうと思う。深刻なネタバレはない類の映画であるが、後半の出来事やナレーションについて言及する。

『20センチュリー・ウーマン』は1979年のカリフォルニア州サンタ・バーバラを舞台に、15歳の少年ジェイミーと彼のシングルマザーであるドロシアを軸としたドラマである。ドロシアはジェイミーの相談相手になってもらうことをドロシアの家で間借りをしているアビーと、ジェイミーの幼なじみであるジュリーに頼み、彼らの人間模様が描かれる。

映画冒頭に1979年のサンタ・バーバラの俯瞰が映る。

街の俯瞰の後、ここから駐車中に炎上してしまったドロシアのフォードが映る。この車のカットも俯瞰で、徐々に観客は地上に降りていく錯覚を覚える。映画の中で何度か印象的に俯瞰のカットが使われているが、効果として、観客は少し引いた位置から1979年という絶妙な時代を眺めることになる。この1979年というタイミングがどのような意味を持つか、それを知るには、ドロシアの生きた時代と、うかがい知れるキャラクターのバックグラウンドを理解する必要があるだろう。

 

ドロシアは第二次大戦中空軍パイロットを目指し、戦後はいち早く社会進出した自立した女性である。

それでもアメリカ社会が変革を迎えた60〜70年代に育ったアビーやジュリーとは感覚が異なっていて、だからこそ2人に「外の世界」をジェイミーに見せてほしいと考えるのだが、どうしても感覚の差は埋められない。アビーは女性解放の文脈で読まれている多くの本をジェイミーに紹介し、ジェイミーは夢中になるだが、ドロシアにはそれらが”過激”なものに見えてしまう。ともに進歩的であるはずのこの世代間の齟齬は、タバコというアイテムでも象徴的に表されいる。ドロシアはヘビースモーカーで、世代的には彼女にとってタバコは自立した女性の象徴のように見なされ、実際それは「健康的」とさえ捉えられていたが、ジェイミーはそれが体に悪いことを知っている。

映画で描かれるのは、この世代間の齟齬を抱えた登場人物たちが、彼らを取りまく社会にどのように対処していくかである。注目すべきは1979年の米国が、ベトナム撤退から6年が経った平和な社会でありながら、カウンターカルチャーの影響が色濃く、社会が依然変革を求めていた、20世紀では最後のタイミングと捉えられることだ。

 

映画中盤で、過去形で語られるドロシアのナレーションが、実は20世紀末のタイミングから語られていたことが判明する。登場人物たちはまだ、ロナルド・レーガンも、地球温暖化も、HIVも知る由もなかったことが語られる。もちろんインターネットも。映画で描かれる主な出来事は1979年のことであるにも関わらず、わざわざ中盤で1980年以降に言及する意味は大きい。80年代に社会の雰囲気は大きく変わった。ロナルド・レーガンは現在の共和党の強固な支持層につながる宗教的保守主義を政治に導入し、その後の政権にも引き継がれる自由主義的な経済政策を推し進め、ソヴィエトとの緊張状態を復活させて強いアメリカを追い求めた。平和な世界を希求する変革は一段落し、ベトナム戦争も公民権運動も過去のものになった(呼応するようにアメリカ映画の文脈ではアメリカン・ニューシネマで描かれた社会性を脇におき、娯楽への回帰が起こる)。

映画は60年代、70年代とは大きく異なる20世紀の最後の5分の1を経験した後から、1979年を振り返っているのだ。映画後半、その後再選を果たせないリベラルな大統領であったジミー・カーターのぎこちないテレビ演説が、登場人物たちにひとつの時代のおわりを予感させる(ドロシアだけが「感動的だった」と感想を述べるのが象徴的だ)。重要なのは、社会の変革が意識された時代は終わろうとしている一方で、その雰囲気はまだ息づいているということだ。だからこそ、20世紀末から1979年の彼らの社会への向き合い方を振り返ることは、1979年以前の変革の時代と、その後にやってくる現在にもつながるパラダイムを見通すことにつながっているのだ。

ただ、彼らの社会との向き合い方は、なにか大きな事件を通して見えてくるわけではなく、映画の中での一つひとつの出来事からそれらを読み解くことができる。そのなかでも見逃しやすいが大きな意味を持つシーンが、映画の終盤のドロシアの変化を示すシーンだ。

アビーがジェイミーに見せる世界が「過激すぎる」と感じたドロシアはジェイミーにもその心配な気持ちを伝えるが、ジェイミーは自分はすべてのことに対処しようとしているだけだ(I’m dealing with everything)と反駁され、さらにはドロシアは何にも対処しようとしていない(You’re dealing with nothing)と言われてしまう(本当はドロシアは子供の見る世界を理解しようと必死なのだが)。このシーンの少し後に、ドロシアが社会に対しての向き合い方において一歩踏み込む変化が描かれる。運転中交差点での車線変更をしたとの理由で警官に呼び止められ、それに反抗するのだ。新しい世代からどちらかといえば保守的と捉えられてしまったドロシアが、本来の社会に主張する人格を発揮する。ジェイミーが社会と「対処する」のに勇気づけられ、自らももう一度社会の納得がいかないことに対峙した瞬間であり、地味なシーンだがその後の母と息子の歩み寄りを読み解く上で大きく意味を持つシーンだろう。

そして、この親子の歩み寄りがもたらす会話が、あとにも先にもなかった親密なものであったことがジェイミーによるナレーションで語られるのだ。ここではジェイミーの青春の瞬間でしか成立しなかった体験と同様、1979年の穏やかな世界も再び訪れることがなかったことが示唆されているのではないか。

映画のラスト、ドロシアは小型飛行機に乗っている。ドロシアの好きな俳優であるハンフリー・ボガートの映画『カサブランカ』のヒロインのように。これがファーストカットと呼応する。サンタ・バーバラの俯瞰は、劇動の20世紀を生き抜いたドロシアが、空から街を見下ろしていたのかもしれない。

文字通りに解釈すれば、複数形のタイトルである20th Century Womenとはドロシアとアビー、ジュリーのことであろうが、アメリカ社会の20世紀という時代を生きた不特定多数の女性への賛歌とも受け取れる傑作だ。

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